こんにちわ。ねんどです!
最近いろいろあってとてもナイーブになっている私です。いえ、何か出来事が原因というわけでなく、ここ数年直に感じていたことではありますが・・・。
地に足がつかないような気持ち
私はもう今年で32になるのですが、恥ずかしながら何一つ不自由のないような生活をしていて、学生や社会人になりたての頃に多少の苦境はありましたけれど、平和に過ごしてきたと思います。
現状、社会的な基盤は安定していると言ってよく、恵まれていると思える反面、何か人生の芯みたいなものを見失っている感覚があります。
心のつながり
遊びの友達を見つけることは簡単なんですが、そういったものに虚しさを感じます。薄い繋がり…今まで沢山の関係(人から見ると少ないかもしれませんが)があり、それらはその時に楽しい感覚を共有していたものであり、人生のワンシーンを共にするという決意に満ちたものではなかったと感じています。
私は根が厭世的な部分もあり、ネガティブな自分を肯定的に捉えているちょっと特殊なタイプで、対人関係に置いても他人とは一区切り置いて付き合っていたと思います。すべての人は自分が一番大事で、自分に利するから付き合う、そうでないなら離れることを否定しないという感覚ですね。
ただ、この歳になると自己というものがだいぶ曖昧になってきていて、自分で自分を定義することが難しくなってきました。他者と接することで自己を認識するような感覚が強く、旧友といるときだけ自分が帰ってきたような気持ちになります。
そうなってから、過去の繋がりや関係をもっと大事にすればよかったと考えるようになりました。
失うことは悪いことか
失うことの苦しみはできれば味わいたくないものだと思います。ただ、これから早かれ遅かれいろいろなものを失っていくでしょう。それは情熱だったり健康だったり大事な人だったり。得ることがすべてだった20代までとは違う景色にいると感じています。
社会的成功を収めた人間が果たして幸福なのか、という疑問は前から持っていて、それはイエスでありノーでもあると思います。私達にとって一番大切なものは時間で、これはどのような人間でも変わらないものです。同じ時間で何を感じどう生きるかという点において、どうしたら充足を得られるのか。ここに関しては一概に言えるものではないですよね。
最も幸福な人生とは一つ、何かを得て、それを失うまでの期間が長いことなのかもしれません。ですが、いつ失うかは神のみぞ知るともいえ、我々ができることはあまりないかもしれませんが。あとは、得たものが多ければ喪失の苦しみを按分できるかもしれません。
他方で、喪失を人生のシーケンスに組み込む…という考え方もあります。喪失は当人にとって決して肯定できるものではないでしょうから、その上に成り立つ人生とは一体何なのか…これはとても難しい問題だと思います。悲観することが正しいとも思いませんが、その肯定は自身を否定するような厳しい選択になります。
どう生きるのが正解?
難しいですが、やはりその時どきで必要としていることをただ集中してやりきることでしょうか。失うことは怖いですが、得られないのはもっと怖いことかもしれません。
長い目で見た人間関係の構築というのが自分としては課題になってきそうです。なかなか難しそうですが、今が自分にとって一番若いときですしね。頑張っていきましょう!