仲間を求めて

こんばんわ、ねんどです。あっという間に9月も10日になりましたね。何が起きているのか、自分でも分からないような日々です。

孤独という感情

最近、孤独という感情がすごくて、自分で自分を保つのにいっぱいいっぱいになっています。自分でも不思議なくらいの状態なんですが、今、少しいろいろと見えてきたものもあるので、それを書いてみようかなと。

まず、この孤独って感覚は、たぶん誰かにそばにいてほしいとか話したいというのが本当に必要なことじゃなくて、自分を見失っているんだと思います。

自分で自分を埋められないので、他人で埋めたくなるんです。もちろん、他人がいて嬉しいのはあらゆる場合でそうだと思うんですが、やっぱりそういう状況とは毛色が違うと思っていて。他人がいないと埋まらないんです。それぐらい、自己が空虚になっていて、あらゆる行動になんら価値を見いだせなくなってます。

人生のスケールで見たとき

友達とか、気の合う人と楽しく遊ぶっていうのも一時的にはいいと思うんです。昔の自分もそうで、何の不安もなく楽しく生きられていました。ただ、3年後・5年後にその関係はどうなってるのか?長いスケールでみたときに、本当に意味のある関係性なのか。こんな風に考えて人付き合いするのは変に思いますが、重要なのは、自分にとってかわらないものは常に自分なんです。

友達は自分じゃなくて、友達なんですよね。自分があって、友達がある。その順序が変わってしまうと、自分が自分の人生を生きてないことになります。自分の人生を生きないと、自分にとって無意味と思えてしまう歴史がただ連なっていくことになります。

もちろん、有意な人生ってなんだろうかとも考えます。若いときは、「有意であろう」と決めかかって生きることが出来ましたが、選択肢がなくなり現実が見えてくるに従い、この人生が自分にとって「有意である」と決断し生きなければいけなくなるように感じます。そうでなければ、自分の為すべきことが分からず、周りに併せて生き、最後には生き詰まってしまう。

すべての可能性を生きることは出来ない

人生は短いです。信じられないほどに。あらゆる可能性が閉ざされていく中で、自己などあまりにもちっぽけな存在に感じていきます。

人は、共同体の感覚から、世界への敬意を持って死んでいくのが理想だと思います。家族のような真の繋がりを持つこと。強い信頼関係の元で構築された絆を紡いでいくこと。そのための役割を全うすること。自分という樹を太く育てていくこと。

今、何もできていない自分ではありますが、ここからがスタートだと思っています。大丈夫、何もかも楽しいフェーズは終わったかもしれませんが、これから強くなればいい。それでは!